フェリックスはファルスの義勇軍のもとへと急いでいた。順調に馬を走らせ、丘の向こうに大聖堂の屋根が見えてきたところで、時刻はまだお昼過ぎだった。途中のこじんまりしたパブで軽く昼食をとり、顔見知りの農夫たちと挨拶をかわし、口笛で愛馬を呼んだ。その鹿毛が頭を上下に振りながらやってきたそのとき、茂みに見え隠れする道に、見覚えのある姿が現れた。
「フェリックス!フェリックス様!」その騎士は彼を見つけると大声で叫んで、急いで馬を降りた。
「慌ててどうした? 君の部隊はもうファルスに着いている頃だろ」
フェリックスは馬上で表情を引き締めた。何事があろうと同行しなければならない。
「大聖堂に、レインさんが、いやあの、マーゲイ隊長が、あの、さらわれまして」
騎士は息があがっていた。かなり慌てている。
「さらわれた!?」
冗談としても面白くないぞ、と、フェリックスは首をかしげた。レイン・マーゲイというのはロアーヌ屈指の術の使い手で、本人は現場が好きらしいがアカデミーがどうしてもと講義を依頼することがある。それはもうスパルタ教育で、エリートを自負して入学してきた若い術使いたちは、たった数回のレインの白虎術クラスの後にごっそりいなくなる。そして、普段は不人気なはずの玄武術クラスが定員オーバーになるのだった。フェリックスは、余りにも人数が少ないので一度くらい出席を、と頼まれて彼女のクラスに出たことがある。フェリックス自身が優秀ということもあったが、何しろ綺麗な女の人には弱いので、何を言われてもはいはいと素直に聞いた。レインはというと、フェリックスが剣を主体に使いながら術で補完できることがないか模索する姿勢に、他の学生にはない柔軟性を見出して感心した。その後、彼女は論文を出し高評価を得たが、そこにはフェリックスにヒントを得たところも多々あったという。フェリックスのほうも、最前線で武器なしで戦えるレインの術レベルの高さには今も敬意を払っていた。
そのレインが、拉致された。敵が只者でないのか、レインの側に何か決定的に弱点でもあったのか。
場所は大聖堂とはっきりしているので、フェリックスは騎士とともに馬をとばした。
騒ぎは街中にも広まっていた。レインの部隊は日ごろこの大聖堂を中心に、ミュルスの警護に当たっているので、ミュルス住民も不安で騒いでいるのだ。司教はフェリックスに、何としてもレインを救ってほしいと懇願した。
大聖堂の中に入ると、部隊のほかの面々も心配そうに近づいてきた。フェリックスは次の扉の隙間をちらっとのぞいて言った。
「先生……レインはどうしたんだ? 相手は何か要求してるのか?」
「地下にこもって、結界を張っているので様子も分からないんです。医師と言ってそこの宿屋に泊まっていた若い男なのですが」
「レインが捕まったときの様子は?」
「相手はレイン隊長を最初から狙ってナイフを投げてきました。隊長はすぐに術で叩き落しましたが、相手が何か術を発動しかけたのを見て聖堂へ走りこんだのです。我々は追いかけ、階段から落下していく2人を見ました。結界は落ちながら張られたようでした」
広い螺旋階段が階下へと続いているが、それは今のように薄暗いと、まるで海の底にいる巻貝の化石のような姿だった。その階段しか通路はないのに、そこに強力な結界が張られ、降りて行けないのである。だがフェリックスは、慎重に結界の範囲を術の熱によって感覚で測ってみて気付いた。術の応用問題か? フェリックスは少しの間考えて、中央の空間部は、自分の太陽術で頑張れば突破できないこともないと結論づけた。
おもむろに手すりに飛び乗ったフェリックスを見て、騎士たちが引きとめようとした。
「何やってるんです! 下までどれくらいの深さがあると思いますか、そこは吹き抜けなんですよ」
フェリックスはにやっと笑った。「心配ない。ただし、行くのはオレ一人だ」
言うなり、フェリックスは螺旋階段中央の吹き抜けに飛び込んだ!
司教もその飛び込みっぷりには息を呑んだが、フェリックスは平然と闇の中を落下していった。思ったとおり、白虎と太陽の術を融合させると、見えないクッション性のあるパワーが機能して、フェリックスは安全にふわりと底に降り立った。ただし持てる術力はここまでで、あとは剣に物を言わせるつもりだ。
そこは、意外と狭い、聖堂の地下室入り口だった。ここは、フェリックスさえも来たことがない、本来は開かずの間である。奥には古い祭壇があって、蝋燭がともされている。その脇に若い、旅行者風の術使いが立っていて、レインは部屋の右端で柱に縛り付けられていた。暗いので、彼女がどうなっているのか見えにくいが、黒髪がウェーブした頭は垂れ、くすんだ緑のマントの下の手は微動だにしない。
「よくも、やったな」小声で呟き、フェリックスは剣に手をかけた。
「お前は、フ、フェリックスだな!」敵は甲高い声でわめいた。「そうだ、前からお前をやっつけたかったんだ」
「はあ!?」
フェリックスはイラついて言った。「オレを知ってるというのか、誰だお前」
「くそったれ、ツヴァイクのトーナメントだよ! 予選でお前たちと当たり、敗退したから何も貰えなかった。お前たち、貴族ばかしで華やかで強くて、会場の人気者だったよな! おかげでオレたちは!」
男はナイフを投げてきたがでたらめのほうへとんでいった。男といってもよく見ればフェリックスと同年代。トーナメントで戦った記憶は、残念ながらやはりない。フェリックスは構わず部屋を進み、レインのロープをさくっと切った。彼女は、何と寝ているだけだ。フェリックスは再度、冴えない若者に振り返って言った。
「トーナメントってのは勝ち抜き戦だぞ。負けて逆恨みされたくないね」
「オレの恨みはそれだけじゃないっ。冒険者を諦めてピドナで医学校に入って、薬を発明した」
「それはおめでとう。たいしたもんだ」
「ちゃちゃ入れるんじゃないっ。畜生、オレが苦労して作った薬は、ナジュでは古来からある胃薬と成分が同じだと論文でこき下ろされて! えい、もうやけくそだ」
「論文?」フェリックスは顔を曇らせた。「まさかレインが書いた論文か?」
「違う、ああいうのは難しくて読め--いやそれより、聞いて驚け」
「何だよ」フェリックスは腰に手を当て、上から目線できいてやった。
「オレは、とうとう理解者を見つけたわけだ。力になると言うすごい魔術師が現れた。聖ヒルダの日にそこの女を連れてくる条件で」
「おい。怪しいだろ、魔物くさいだろ、この日に誰かをさらうことが条件なんて」
「む」
彼はこのとき本気で、この話を疑い始めたようだ。フェリックスは呆れた。そのとき。
「ったく、マヌケにもほどがある!」
そのちょっとハスキーな声に、フェリックスはどきっとした。雰囲気が、レインのスパルタ講義そのままだ。振り返ると、小柄な術使いが祭壇そばの司教用の椅子に、足を組んで座っていた。
「こいつはどうしましょう、先生?」
「フェリックス、どいてなさい。その小僧には思い知らせる必要がある」
「小僧ってゆうなっ」
「そういや名前も聞いてなかった、結局」
フェリックスが肩をすくめると、レインが言った。
「ジム・マーゲイ。私の弟なのよ。出来が悪いのは知っていたけど、ここまでのろくでなしとはね」
「姉さまには凡人の苦労がわからない。そもそも姉さまは底意地が悪いんだっ」ジムがわめくが、段々と泣き声に近づいている。
「なるほど。君ら似てないね」フェリックスは普通にコメントした。
「この人ってば、術を習ったけどものにできず、剣に転向したけど腕力がなくて話にならず。せっかく医学校に入ったのに、薬をこき下ろされたくらいでやけを起こすなんて。愚か者というのはこの小僧のことよ」
「でもここへ拉致してやったぞ」
口を尖らせるジムを見て、レインはさらに強い口調で言った。
「威張るんじゃないっ」
「ぐへっ」
術が放たれたのかとフェリックスは思ったが、実はレインがげんこつを見舞ったのである。ジムはこぶが出来た頭をさすりながらしゃがみこんだ。
レインは結界を張るのに使った術力がまた戻るまで、やられたフリをして休んでいたのだった。それは勿論、その後で強大な術を使うためである。
「私がミュルスの警護を任されている理由の一つは、先々代の大司教の血縁に当たるから。大聖堂は大昔の墓所を基に建っているけど、その墓所というのは、死体の数が多すぎてきちんとした埋葬もできなかった時代のね。この開かずの間はその地下墓所への通路を封じ、定期的に慰霊する祭壇なのよ。封じたというのは、そうしないと危険だから」
ジムはひねくれた目を姉に向ける。レインは術を発動する構えを見せながら話し続けた。
「危険というのは、意味わかるわね?」
なるほど、と、フェリックスは真顔で考えた。
今日は聖ヒルダの日。異界との境界線が甘くなり、地下墓所の何千という死者が地上に噴出する機会を窺っている。この開かずの間で下手に強力な術を使えば通路が開き、彼らに出口を与えてしまうのだ。レインが誰も入れないように結界をめぐらせた理由、それは、ここで万一の事故が起きた場合に、外部の者を巻き込まないためだった。いや、危険はそれだけではない。敵がジムに興味を持ったきっかけは、彼が医学をやっていたからだ。
論文で批判された? それは一体誰の書いたものだ!?
フェリックスはジムの襟首をつかんでいった。
「お前、誰に唆されたんだ。まさかモレスコじゃないだろうな!?」
「ははん、やっぱりな、有名人だと思った」
「やっぱりね、何もわかってない!」
レインの白虎術が発動した。ジムの周囲の石床がガンガンと激しい音を立てて浮き上がり、宙を漂ったあと、風で吹き飛ばされたようにジムを取り巻いた。そして落下した。
大聖堂全体に轟音が響き渡る。
「な、何だ!」
石はジムの周囲にぎっしりと詰まっていった。傷つける動きではないが、肩まで身動きが取れない深さに積みあがっている。
「このまま殺す気か、鬼!」ジムは泣き言を言った。
レインはそこで術を止め、ため息をついた。
「フェリックス。申し訳ないけど、私はしばらくここを離れられないわ。責任を持ってここを封じなければ」
「彼はどうなるんです?」フェリックスは尋ねた。
「今夜は、あのまま。じゃないと保護できないから。薬の研究や私をさらえとは口実で、モレスコはジムを異界の何かに吸収するのが狙いだと思う。何しろ、彼は術の潜在的パワーは私より強力なくせに、本人に自覚がないのよ。けれど自己制御されていない術力は、アビスの者を引き付ける」
レインは、さすがに疲れたらしく、転がっている石柱のひとつに腰を下ろした。
「上の部隊が心配してるだろう。援護に呼ぼうか?」
「そうね、来てくれれば心強いわ」
そしてちょっと寂しげに微笑んだ顔が、蝋燭の淡い光と溶け合って何とも美しかった。
「オレは?」と、自分も残ろうと半ば心に決めて、フェリックスは尋ねる。
レインは、あ、そうだ、という顔で答えた。
「階段の結界は解かなきゃね。あなたには昇って帰ってもらうことになるけど、9635段」
次の朝早く、フェリックスは船に乗った。レインたちは無事だと部下の騎士が一人見送りに来た。フェリックスは、あとで合流するという騎士に桟橋から手を振った。
フェリックスがまだガクガクする足で無理やり軽やかに歩くのを見ていたのは、デッキに寝そべっている黒猫だけだった。
「フェリックス!フェリックス様!」その騎士は彼を見つけると大声で叫んで、急いで馬を降りた。
「慌ててどうした? 君の部隊はもうファルスに着いている頃だろ」
フェリックスは馬上で表情を引き締めた。何事があろうと同行しなければならない。
「大聖堂に、レインさんが、いやあの、マーゲイ隊長が、あの、さらわれまして」
騎士は息があがっていた。かなり慌てている。
「さらわれた!?」
冗談としても面白くないぞ、と、フェリックスは首をかしげた。レイン・マーゲイというのはロアーヌ屈指の術の使い手で、本人は現場が好きらしいがアカデミーがどうしてもと講義を依頼することがある。それはもうスパルタ教育で、エリートを自負して入学してきた若い術使いたちは、たった数回のレインの白虎術クラスの後にごっそりいなくなる。そして、普段は不人気なはずの玄武術クラスが定員オーバーになるのだった。フェリックスは、余りにも人数が少ないので一度くらい出席を、と頼まれて彼女のクラスに出たことがある。フェリックス自身が優秀ということもあったが、何しろ綺麗な女の人には弱いので、何を言われてもはいはいと素直に聞いた。レインはというと、フェリックスが剣を主体に使いながら術で補完できることがないか模索する姿勢に、他の学生にはない柔軟性を見出して感心した。その後、彼女は論文を出し高評価を得たが、そこにはフェリックスにヒントを得たところも多々あったという。フェリックスのほうも、最前線で武器なしで戦えるレインの術レベルの高さには今も敬意を払っていた。
そのレインが、拉致された。敵が只者でないのか、レインの側に何か決定的に弱点でもあったのか。
場所は大聖堂とはっきりしているので、フェリックスは騎士とともに馬をとばした。
騒ぎは街中にも広まっていた。レインの部隊は日ごろこの大聖堂を中心に、ミュルスの警護に当たっているので、ミュルス住民も不安で騒いでいるのだ。司教はフェリックスに、何としてもレインを救ってほしいと懇願した。
大聖堂の中に入ると、部隊のほかの面々も心配そうに近づいてきた。フェリックスは次の扉の隙間をちらっとのぞいて言った。
「先生……レインはどうしたんだ? 相手は何か要求してるのか?」
「地下にこもって、結界を張っているので様子も分からないんです。医師と言ってそこの宿屋に泊まっていた若い男なのですが」
「レインが捕まったときの様子は?」
「相手はレイン隊長を最初から狙ってナイフを投げてきました。隊長はすぐに術で叩き落しましたが、相手が何か術を発動しかけたのを見て聖堂へ走りこんだのです。我々は追いかけ、階段から落下していく2人を見ました。結界は落ちながら張られたようでした」
広い螺旋階段が階下へと続いているが、それは今のように薄暗いと、まるで海の底にいる巻貝の化石のような姿だった。その階段しか通路はないのに、そこに強力な結界が張られ、降りて行けないのである。だがフェリックスは、慎重に結界の範囲を術の熱によって感覚で測ってみて気付いた。術の応用問題か? フェリックスは少しの間考えて、中央の空間部は、自分の太陽術で頑張れば突破できないこともないと結論づけた。
おもむろに手すりに飛び乗ったフェリックスを見て、騎士たちが引きとめようとした。
「何やってるんです! 下までどれくらいの深さがあると思いますか、そこは吹き抜けなんですよ」
フェリックスはにやっと笑った。「心配ない。ただし、行くのはオレ一人だ」
言うなり、フェリックスは螺旋階段中央の吹き抜けに飛び込んだ!
司教もその飛び込みっぷりには息を呑んだが、フェリックスは平然と闇の中を落下していった。思ったとおり、白虎と太陽の術を融合させると、見えないクッション性のあるパワーが機能して、フェリックスは安全にふわりと底に降り立った。ただし持てる術力はここまでで、あとは剣に物を言わせるつもりだ。
そこは、意外と狭い、聖堂の地下室入り口だった。ここは、フェリックスさえも来たことがない、本来は開かずの間である。奥には古い祭壇があって、蝋燭がともされている。その脇に若い、旅行者風の術使いが立っていて、レインは部屋の右端で柱に縛り付けられていた。暗いので、彼女がどうなっているのか見えにくいが、黒髪がウェーブした頭は垂れ、くすんだ緑のマントの下の手は微動だにしない。
「よくも、やったな」小声で呟き、フェリックスは剣に手をかけた。
「お前は、フ、フェリックスだな!」敵は甲高い声でわめいた。「そうだ、前からお前をやっつけたかったんだ」
「はあ!?」
フェリックスはイラついて言った。「オレを知ってるというのか、誰だお前」
「くそったれ、ツヴァイクのトーナメントだよ! 予選でお前たちと当たり、敗退したから何も貰えなかった。お前たち、貴族ばかしで華やかで強くて、会場の人気者だったよな! おかげでオレたちは!」
男はナイフを投げてきたがでたらめのほうへとんでいった。男といってもよく見ればフェリックスと同年代。トーナメントで戦った記憶は、残念ながらやはりない。フェリックスは構わず部屋を進み、レインのロープをさくっと切った。彼女は、何と寝ているだけだ。フェリックスは再度、冴えない若者に振り返って言った。
「トーナメントってのは勝ち抜き戦だぞ。負けて逆恨みされたくないね」
「オレの恨みはそれだけじゃないっ。冒険者を諦めてピドナで医学校に入って、薬を発明した」
「それはおめでとう。たいしたもんだ」
「ちゃちゃ入れるんじゃないっ。畜生、オレが苦労して作った薬は、ナジュでは古来からある胃薬と成分が同じだと論文でこき下ろされて! えい、もうやけくそだ」
「論文?」フェリックスは顔を曇らせた。「まさかレインが書いた論文か?」
「違う、ああいうのは難しくて読め--いやそれより、聞いて驚け」
「何だよ」フェリックスは腰に手を当て、上から目線できいてやった。
「オレは、とうとう理解者を見つけたわけだ。力になると言うすごい魔術師が現れた。聖ヒルダの日にそこの女を連れてくる条件で」
「おい。怪しいだろ、魔物くさいだろ、この日に誰かをさらうことが条件なんて」
「む」
彼はこのとき本気で、この話を疑い始めたようだ。フェリックスは呆れた。そのとき。
「ったく、マヌケにもほどがある!」
そのちょっとハスキーな声に、フェリックスはどきっとした。雰囲気が、レインのスパルタ講義そのままだ。振り返ると、小柄な術使いが祭壇そばの司教用の椅子に、足を組んで座っていた。
「こいつはどうしましょう、先生?」
「フェリックス、どいてなさい。その小僧には思い知らせる必要がある」
「小僧ってゆうなっ」
「そういや名前も聞いてなかった、結局」
フェリックスが肩をすくめると、レインが言った。
「ジム・マーゲイ。私の弟なのよ。出来が悪いのは知っていたけど、ここまでのろくでなしとはね」
「姉さまには凡人の苦労がわからない。そもそも姉さまは底意地が悪いんだっ」ジムがわめくが、段々と泣き声に近づいている。
「なるほど。君ら似てないね」フェリックスは普通にコメントした。
「この人ってば、術を習ったけどものにできず、剣に転向したけど腕力がなくて話にならず。せっかく医学校に入ったのに、薬をこき下ろされたくらいでやけを起こすなんて。愚か者というのはこの小僧のことよ」
「でもここへ拉致してやったぞ」
口を尖らせるジムを見て、レインはさらに強い口調で言った。
「威張るんじゃないっ」
「ぐへっ」
術が放たれたのかとフェリックスは思ったが、実はレインがげんこつを見舞ったのである。ジムはこぶが出来た頭をさすりながらしゃがみこんだ。
レインは結界を張るのに使った術力がまた戻るまで、やられたフリをして休んでいたのだった。それは勿論、その後で強大な術を使うためである。
「私がミュルスの警護を任されている理由の一つは、先々代の大司教の血縁に当たるから。大聖堂は大昔の墓所を基に建っているけど、その墓所というのは、死体の数が多すぎてきちんとした埋葬もできなかった時代のね。この開かずの間はその地下墓所への通路を封じ、定期的に慰霊する祭壇なのよ。封じたというのは、そうしないと危険だから」
ジムはひねくれた目を姉に向ける。レインは術を発動する構えを見せながら話し続けた。
「危険というのは、意味わかるわね?」
なるほど、と、フェリックスは真顔で考えた。
今日は聖ヒルダの日。異界との境界線が甘くなり、地下墓所の何千という死者が地上に噴出する機会を窺っている。この開かずの間で下手に強力な術を使えば通路が開き、彼らに出口を与えてしまうのだ。レインが誰も入れないように結界をめぐらせた理由、それは、ここで万一の事故が起きた場合に、外部の者を巻き込まないためだった。いや、危険はそれだけではない。敵がジムに興味を持ったきっかけは、彼が医学をやっていたからだ。
論文で批判された? それは一体誰の書いたものだ!?
フェリックスはジムの襟首をつかんでいった。
「お前、誰に唆されたんだ。まさかモレスコじゃないだろうな!?」
「ははん、やっぱりな、有名人だと思った」
「やっぱりね、何もわかってない!」
レインの白虎術が発動した。ジムの周囲の石床がガンガンと激しい音を立てて浮き上がり、宙を漂ったあと、風で吹き飛ばされたようにジムを取り巻いた。そして落下した。
大聖堂全体に轟音が響き渡る。
「な、何だ!」
石はジムの周囲にぎっしりと詰まっていった。傷つける動きではないが、肩まで身動きが取れない深さに積みあがっている。
「このまま殺す気か、鬼!」ジムは泣き言を言った。
レインはそこで術を止め、ため息をついた。
「フェリックス。申し訳ないけど、私はしばらくここを離れられないわ。責任を持ってここを封じなければ」
「彼はどうなるんです?」フェリックスは尋ねた。
「今夜は、あのまま。じゃないと保護できないから。薬の研究や私をさらえとは口実で、モレスコはジムを異界の何かに吸収するのが狙いだと思う。何しろ、彼は術の潜在的パワーは私より強力なくせに、本人に自覚がないのよ。けれど自己制御されていない術力は、アビスの者を引き付ける」
レインは、さすがに疲れたらしく、転がっている石柱のひとつに腰を下ろした。
「上の部隊が心配してるだろう。援護に呼ぼうか?」
「そうね、来てくれれば心強いわ」
そしてちょっと寂しげに微笑んだ顔が、蝋燭の淡い光と溶け合って何とも美しかった。
「オレは?」と、自分も残ろうと半ば心に決めて、フェリックスは尋ねる。
レインは、あ、そうだ、という顔で答えた。
「階段の結界は解かなきゃね。あなたには昇って帰ってもらうことになるけど、9635段」
次の朝早く、フェリックスは船に乗った。レインたちは無事だと部下の騎士が一人見送りに来た。フェリックスは、あとで合流するという騎士に桟橋から手を振った。
フェリックスがまだガクガクする足で無理やり軽やかに歩くのを見ていたのは、デッキに寝そべっている黒猫だけだった。
オリバーが下を覗くと、にらみ合うジョカルとサンティの姿が、薄暗い船室に浮かび上がった。弓で狙おうにも、障害物が多すぎ、その影のせいで暗くて狙えない。モスは、2人の気迫だけで圧倒されてしまって、何もできずに座り込んでいる。自分で灯りを持ってくるか。だがそれには、この狭い通路をずっと奥まで戻らなければならない。狙いさえつけることができたら!
オリバーはもどかしさにイライラした。
ジョカルは、サンティが再度仕掛けてくるのを待ち構えていた。長い鎌は並みの使い手ではすぐに隙を生じるが、サンティはこの長い柄を全く邪魔にしていない。そして、ジョカルが試合で対戦してきたどんな相手もしなかった、異様な構えを見せて、まるで虫を狙う毒蜘蛛のような動きで重心を落とし、鎌をゆっくりとゆすって見せた。ジョカルは暗がりに目が慣れて、鎌の動きをやすやすと追う。と同時に、この空間にある障害物の位置を素早く把握した。
頭上には点灯したランプがあって、浸水している水にちらちらと反射している。また奥の階段脇には、未使用の碇が、その反対側には上に運べなかった食料の樽がいくつかあった。
サンティはいきなり飛び掛ってきた。ジョカルは目の前を切っ先が横切るのを見、髪が少し切れて散るのを見た。そしてかわしながらカウンターで敵の足を狙って跳んだ。
サクッ。
サンティのブーツが斬れる。サンティはこれを気にすることなく、次の攻撃を仕掛けた。ジョカルはダガーと剣の両方で鎌を受け、跳ね返す。返した動きのまま、背後に滑り込み、利き腕の肩にダガーを突き立てた。
フン、とサンティは鼻で笑い、ダガーを抜いて投げ捨てる。次の鎌、来い。ジョカルは、じりじりと動きながら待ち受けた。剣は低く、正面に構えている。
来た。
ダガーで刺された怒りで、サンティの鎌はさっきより速くなっていたが、それより速く、ジョカルの剣がサンティのわき腹を裂いた。ジョカルは手ごたえとともに相手の体を駆け抜けたが、相手が倒れないのもすぐに感じ取った。
「まだ倒れないぞ、ジョカル!」
オリバーの叫ぶ声が聞こえたとき、ジョカルは小声で呟いた。
「そうだろうとも」
サンティが反撃してくるタイミングを狙って、ジョカルは樽を蹴倒した。わき腹を切られてバランスの悪かったサンティはどっと転ぶ。だが、その体勢は彼の得意な構えを可能にしていた。ジョカルに鎌を踏まれても、サンティは同じ体勢でジョカルを睨んでいる。
「武器を捨てろ、貴様は捕虜だ」
と、ジョカルは厳しく言った。
「わかった」
サンティが小声で答えるのを聞いて、ジョカルは、彼の首に剣を突きつけるのをやめた。
ダメだ、と、オリバーは呟いた。サンティの目が黄色かったのは、ある種の薬物中毒のせいだと、彼にはわかっていた。この薬物で洗脳されると、自分の身の保全を考える常識などは失い、とにかく目の前の敵に打ちかかっていくのである。こんな状態で理を説いて通じるわけがないのだ。
これではジョカルが無防備になる。オリバーはその場にある障害物を再度見据え、自分の頭上にある丈夫なロープや、入り口にある華奢なハシゴ、そして、ランプや、碇を見渡した。そして頭の中で計算し、結論が出ると、モスをどかせて素早く弓を構えた。
それは、サンティが、ダガーを拾ってジョカルに飛び掛る寸前だった。
オリバーの放った矢は、ロープを落とし、そのロープの重さでハシゴが倒れ、ハシゴはランプを大きく揺らし、灯りの位置がずれた。
「見えた」
渾身の第2矢はサンティの右足を床に縫いつけ、ジャンプした勢いのサンティは、ジョカルでなく碇に突進した。
ドスッ。
嫌な音に、モスが思わず顔を背けた。
オリバーは、額の汗をぬぐい、モスに強すぎるほど(賞賛の意味で)肩を叩かれ、ジョカルのほうを覗いた。
「船医を、すぐによこしてくれ」
と、ジョカルは、オリバーの予想通りのことを言った。
「まだ息がある。テント社の証人だ。それに、こんな中毒でなければ……」
モスが承知して走って行く。オリバーはサンティの側にしゃがんだジョカルの近くまで降りていった。
「気づいてたんだね、薬物中毒のこと」
「うん、でもな」ジョカルはやれるだけの処置を終えて、寂しそうに言った。「モンスターじゃない、普通の人間と、正面から勝負したんだ。だから、尊厳だけは守ってやりたかったし」
ちょっと甘いよ、と、オリバーは思った。優しいのも、公正なのも結構だけれど、それでどれだけこっちがやきもきさせられることか。
しかし、船医が駆けつけ、手際よく処置を始めるのを見て、ジョカルは真面目に付け加えた。
「それに、もし彼を救えれば、この点でテント社に勝るということでもある」
オリバーは微笑し、肩をすくめた。
「全くその通りです、ええかっこしいの総司令官殿」
船医は、心拍が戻ったのだとかなんとか、もごもご説明しはじめた。オリバーはその場を出ようとし、ちらっと船医の時計が見えたので、はっとした。銀色の竜が文句を言ってから、ここで事件に出くわしてから……。
《この路地に来い、いいな!》
残り、あと5分。
オリバーはもどかしさにイライラした。
ジョカルは、サンティが再度仕掛けてくるのを待ち構えていた。長い鎌は並みの使い手ではすぐに隙を生じるが、サンティはこの長い柄を全く邪魔にしていない。そして、ジョカルが試合で対戦してきたどんな相手もしなかった、異様な構えを見せて、まるで虫を狙う毒蜘蛛のような動きで重心を落とし、鎌をゆっくりとゆすって見せた。ジョカルは暗がりに目が慣れて、鎌の動きをやすやすと追う。と同時に、この空間にある障害物の位置を素早く把握した。
頭上には点灯したランプがあって、浸水している水にちらちらと反射している。また奥の階段脇には、未使用の碇が、その反対側には上に運べなかった食料の樽がいくつかあった。
サンティはいきなり飛び掛ってきた。ジョカルは目の前を切っ先が横切るのを見、髪が少し切れて散るのを見た。そしてかわしながらカウンターで敵の足を狙って跳んだ。
サクッ。
サンティのブーツが斬れる。サンティはこれを気にすることなく、次の攻撃を仕掛けた。ジョカルはダガーと剣の両方で鎌を受け、跳ね返す。返した動きのまま、背後に滑り込み、利き腕の肩にダガーを突き立てた。
フン、とサンティは鼻で笑い、ダガーを抜いて投げ捨てる。次の鎌、来い。ジョカルは、じりじりと動きながら待ち受けた。剣は低く、正面に構えている。
来た。
ダガーで刺された怒りで、サンティの鎌はさっきより速くなっていたが、それより速く、ジョカルの剣がサンティのわき腹を裂いた。ジョカルは手ごたえとともに相手の体を駆け抜けたが、相手が倒れないのもすぐに感じ取った。
「まだ倒れないぞ、ジョカル!」
オリバーの叫ぶ声が聞こえたとき、ジョカルは小声で呟いた。
「そうだろうとも」
サンティが反撃してくるタイミングを狙って、ジョカルは樽を蹴倒した。わき腹を切られてバランスの悪かったサンティはどっと転ぶ。だが、その体勢は彼の得意な構えを可能にしていた。ジョカルに鎌を踏まれても、サンティは同じ体勢でジョカルを睨んでいる。
「武器を捨てろ、貴様は捕虜だ」
と、ジョカルは厳しく言った。
「わかった」
サンティが小声で答えるのを聞いて、ジョカルは、彼の首に剣を突きつけるのをやめた。
ダメだ、と、オリバーは呟いた。サンティの目が黄色かったのは、ある種の薬物中毒のせいだと、彼にはわかっていた。この薬物で洗脳されると、自分の身の保全を考える常識などは失い、とにかく目の前の敵に打ちかかっていくのである。こんな状態で理を説いて通じるわけがないのだ。
これではジョカルが無防備になる。オリバーはその場にある障害物を再度見据え、自分の頭上にある丈夫なロープや、入り口にある華奢なハシゴ、そして、ランプや、碇を見渡した。そして頭の中で計算し、結論が出ると、モスをどかせて素早く弓を構えた。
それは、サンティが、ダガーを拾ってジョカルに飛び掛る寸前だった。
オリバーの放った矢は、ロープを落とし、そのロープの重さでハシゴが倒れ、ハシゴはランプを大きく揺らし、灯りの位置がずれた。
「見えた」
渾身の第2矢はサンティの右足を床に縫いつけ、ジャンプした勢いのサンティは、ジョカルでなく碇に突進した。
ドスッ。
嫌な音に、モスが思わず顔を背けた。
オリバーは、額の汗をぬぐい、モスに強すぎるほど(賞賛の意味で)肩を叩かれ、ジョカルのほうを覗いた。
「船医を、すぐによこしてくれ」
と、ジョカルは、オリバーの予想通りのことを言った。
「まだ息がある。テント社の証人だ。それに、こんな中毒でなければ……」
モスが承知して走って行く。オリバーはサンティの側にしゃがんだジョカルの近くまで降りていった。
「気づいてたんだね、薬物中毒のこと」
「うん、でもな」ジョカルはやれるだけの処置を終えて、寂しそうに言った。「モンスターじゃない、普通の人間と、正面から勝負したんだ。だから、尊厳だけは守ってやりたかったし」
ちょっと甘いよ、と、オリバーは思った。優しいのも、公正なのも結構だけれど、それでどれだけこっちがやきもきさせられることか。
しかし、船医が駆けつけ、手際よく処置を始めるのを見て、ジョカルは真面目に付け加えた。
「それに、もし彼を救えれば、この点でテント社に勝るということでもある」
オリバーは微笑し、肩をすくめた。
「全くその通りです、ええかっこしいの総司令官殿」
船医は、心拍が戻ったのだとかなんとか、もごもご説明しはじめた。オリバーはその場を出ようとし、ちらっと船医の時計が見えたので、はっとした。銀色の竜が文句を言ってから、ここで事件に出くわしてから……。
《この路地に来い、いいな!》
残り、あと5分。
オリオールが大木の後ろに回りこむと、あとの者も急いで続いた。黄金の大木は表面が滑らかで、見事に光り輝いてはいたが、魔物をやりすごすには隠れ場所が必要だ。後ろ側には奇妙なほど大きな洞が空いており、一行は迷わずそこに飛び込んだ。スペースが十分で、馬たちも一緒である。
ミゲルが、上のほうも行ける、と、ぼそぼそ言いながらよじ登った。
「まだ空間があるの?」と、アーシュラ。
「先のほうはちょっと狭いけど、オレ、目もいいしさ、ここで見張る」
「感心なことですね」と、ビクトルさんが言った。この人は、この兄弟に人質にされかけたことを忘れているらしい。また、兄弟も、オリオール暗殺計画のことは、もうどうでもいいらしい。
「し、奴らが来る」と、ワートが言った。残念ながら、そのワートの声が一番響いた。
オリオールはミゲルのすぐ下あたりに登り、森を見下ろした。ここなら魔物が来ても見下ろすポジションで、下手に戦う必要もない。座る場所を確保してから、アーシュラに合図して側まで登ってこさせた。この怪力少女はハンマーを持ったまま寝そうである。このまま朝を待てば、まあ無事にツヴァイクに戻れるだろう。こんなところで予定外の足止めになるのは時間の無駄だが、と、彼女は小さく舌打ちした。
ダンがうっとおしい髪の間から、心細そうにオリオールを見上げた。
「何?」冷たく聞いてやる。
「そっちで声がする。魔物を誰かやっつけているのかね」
「それならそれで、ほっとけばいいわ」
そう応じた直後に悲鳴が上がったが、すぐに、風で木々がざわめく音にかき消された。オリオールは聞き違いではないか、、注意して耳を傾けていた。そして、今度はもっとはっきりと叫ぶ声がした。
「助けてくれ! 誰か!!」
若い男の声としかわからなかったが、複数いる。オリオールは洞から身を乗り出し、暗がりに眼を凝らした。たちかに人影が見えた。
上でミゲルが言った。「大変だ、あれは、騎士だ。魔物に取り囲まれてる」
クリッツの顔はますます青ざめ、ダンは洞の奥にちぢこまった。
オリオールはアーシュラが爆睡しているのをちらと見て、自分のブランケットをかけてやってから、すいっと木から滑り降りた。
「ど、どうするつもりです!」ビクトルさんが飛び出してきてオリオールの腕をつかんだ。
「ビクトルさん、あなたは戻ってて」
ビクトルさんは腕を放し、彼女を見送って独り言を言った。
「……戻るわけないじゃないですか。私ひとりじゃ心もとないけれど、あの若者たちが本気になれば、なんとか役にたちましょう。そして、私には交渉術があるってもんです」
オリオールは自分でもどうかと思いながら、声のほうへ向かって走った。いつもなら、もっと合理的に、冷酷にさえ考えることができる。このあたりを少数でうろついている騎士というのは、十中八九ツヴァイクの、クーデター派の騎士であって、おそらくは、真相をさぐるオリオールを抹殺すべく、ここまで追跡していたのである。そんな刺客を魔物が襲っているならば、何も助けてやることはないではないか。
けれども、再度悲鳴があがって、彼女は一層現場へと急いだ。このときに後ろから、あの兄弟が、ビクトルさんとともにくっついてくるのが見えたので、戻れと合図してみるが、それでもついてくる。よく見るとアーシュラが後ろから追い立ているのだった。
こうなりゃあとは成り行き任せ! オリオールは茂みに隠れて様子を伺い、あとの連中が追いつくと、てきぱきと作戦を伝えた(ついでに栄光の杖も振っておいた)。どういうわけか、今はやる気になった兄弟は、農機具の武器を手にうんうんとうなずく。
「あの、変なマッシーンはどうなの? ハンマーでやろうか」アーシュラが指差した先には、泥色の騎士が変な一人用戦車に乗っている。それは、実はオリバーが遭遇した、哀れなブローの玩具、サー・ブローの変化した姿だった。勿論オリオールはそのことはまだ知らされていない。そして、今や魔物の一種と化したサー・ブローは、子供の作った泥人形ではなくて、異様なパワーを持った殺人戦車だった。
騎士はすでに4人が倒されるか、殺されるかしていた。戦っているのは残り2人。予想通り、紋章からしてツヴァイクの者だ。
「あの2人を援護!」ワートはダンとルークに向かって叫び、突撃した。ダンはその声の大きさにぶるっと震えたが、クワを振りかざしてもたもたとついていった。
「雑魚を一層!」ミゲルはビクトルさんと息もピッタリのタイミングで飛び出した。
驚いたことに、やる気になった兄弟は案外と強かった。たちまち魔物はなぎ倒され、もっと知能の高い連中は、警戒しつつ撤収しようとしている。
アーシュラとオリオールは、一人の騎士をいたぶっていたサー・ブローの前に、ゆっくりと立ちはだかった。
「あんたたち、誰だ?」騎士はヘルメットがズレた情けない状態のまま尋ねた。
「あんたたちが狙っていた相手ですけれど、何か?」オリオールはなかば背を向けたまま言い放った。
「えっ」
「なあ、寝ているままだと、食われるぜ、多分」と、クリッツが横から手を差し出した。騎士は、この顔色のさえない男は、魔物のほうか人間のほうか、一瞬判断に迷ってしまった。
サー・ブローは戦車を変形させ、車輪に炎をまとっている。ヘルメットの中の顔は見えないが、目の辺りからは黄色の光がもれている。握っている剣はかなり重そうなツヴァイハンダーだが、血糊のせいか、何か邪悪な独特の剣に見える。
「彼」が、もとから生物でないことは明らかだった。それも、普通のモノだったのだろう、とオリオールは思った。
モノまでもこの夜に動くようになったなんて。よほど、酷い壊され方でもして、人を恨んでここへ来たのかしら。
考えながら、術を詠唱する。ハンマー娘にベルセルクをかけておくのだ。
「うりゃああっ」
アーシュラのハンマーは戦車を直撃した。戦車はがくんと揺れ、右の車輪は下半分が砕け散った。
よし! オリオールは詠唱していた術を放つ。「クラック!」
左の車輪が、地割れしたその間にはまり込んだ。これで動きは止まった、とどめをさせば終わりだ。
と、思ったのは甘かった。おおいに甘かった。
車輪が砕かれたまま、戦車はにょっこりと地面から這い出し、そして元通りに動き始めた戦車の上で、邪悪な騎士のマシンは剣を振り回し、ミゲルの射た矢を手でつかんでひねり潰した――まるで本物の騎士が、敵に力を見せ付けるときするように。
全員が、さっき助けた騎士も一緒に総攻撃をかける。が、サー・ブローは結局、びくともしなかった。サー・ブローのする攻撃は、威力はあるけれども命中率が高くない。だからかわせばダメージは喰らわないが、こちらの攻撃も効かないのではきりがなく、最後はさっきの騎士のように追い詰められる。
これを見てさすがに兄弟もさっきまでの勢いが冷め、急に恐くなった。
オリオールはかれらを後ろにかばい、アーシュラとともに次の攻撃に備えた。オリオールの武器は、栄光の杖と、護身用のダガーだけである。手持ちの力は小さい、その小さい威力を数倍にするには?
オリオールは得意なほうの計算に切り替えた。小さい元手で、未知の投資をしつつ、数倍の利益を出すには? そしてそのリスクは?
「アーシュラ!」オリオールは小声で呼びかけた。指のサインでハンマー娘には通じる。
「オーケイ、不本意だけどそれ、狙う」と、アーシュラは言い、ハンマーを後ろ手に構えた。
ミゲルが、上のほうも行ける、と、ぼそぼそ言いながらよじ登った。
「まだ空間があるの?」と、アーシュラ。
「先のほうはちょっと狭いけど、オレ、目もいいしさ、ここで見張る」
「感心なことですね」と、ビクトルさんが言った。この人は、この兄弟に人質にされかけたことを忘れているらしい。また、兄弟も、オリオール暗殺計画のことは、もうどうでもいいらしい。
「し、奴らが来る」と、ワートが言った。残念ながら、そのワートの声が一番響いた。
オリオールはミゲルのすぐ下あたりに登り、森を見下ろした。ここなら魔物が来ても見下ろすポジションで、下手に戦う必要もない。座る場所を確保してから、アーシュラに合図して側まで登ってこさせた。この怪力少女はハンマーを持ったまま寝そうである。このまま朝を待てば、まあ無事にツヴァイクに戻れるだろう。こんなところで予定外の足止めになるのは時間の無駄だが、と、彼女は小さく舌打ちした。
ダンがうっとおしい髪の間から、心細そうにオリオールを見上げた。
「何?」冷たく聞いてやる。
「そっちで声がする。魔物を誰かやっつけているのかね」
「それならそれで、ほっとけばいいわ」
そう応じた直後に悲鳴が上がったが、すぐに、風で木々がざわめく音にかき消された。オリオールは聞き違いではないか、、注意して耳を傾けていた。そして、今度はもっとはっきりと叫ぶ声がした。
「助けてくれ! 誰か!!」
若い男の声としかわからなかったが、複数いる。オリオールは洞から身を乗り出し、暗がりに眼を凝らした。たちかに人影が見えた。
上でミゲルが言った。「大変だ、あれは、騎士だ。魔物に取り囲まれてる」
クリッツの顔はますます青ざめ、ダンは洞の奥にちぢこまった。
オリオールはアーシュラが爆睡しているのをちらと見て、自分のブランケットをかけてやってから、すいっと木から滑り降りた。
「ど、どうするつもりです!」ビクトルさんが飛び出してきてオリオールの腕をつかんだ。
「ビクトルさん、あなたは戻ってて」
ビクトルさんは腕を放し、彼女を見送って独り言を言った。
「……戻るわけないじゃないですか。私ひとりじゃ心もとないけれど、あの若者たちが本気になれば、なんとか役にたちましょう。そして、私には交渉術があるってもんです」
オリオールは自分でもどうかと思いながら、声のほうへ向かって走った。いつもなら、もっと合理的に、冷酷にさえ考えることができる。このあたりを少数でうろついている騎士というのは、十中八九ツヴァイクの、クーデター派の騎士であって、おそらくは、真相をさぐるオリオールを抹殺すべく、ここまで追跡していたのである。そんな刺客を魔物が襲っているならば、何も助けてやることはないではないか。
けれども、再度悲鳴があがって、彼女は一層現場へと急いだ。このときに後ろから、あの兄弟が、ビクトルさんとともにくっついてくるのが見えたので、戻れと合図してみるが、それでもついてくる。よく見るとアーシュラが後ろから追い立ているのだった。
こうなりゃあとは成り行き任せ! オリオールは茂みに隠れて様子を伺い、あとの連中が追いつくと、てきぱきと作戦を伝えた(ついでに栄光の杖も振っておいた)。どういうわけか、今はやる気になった兄弟は、農機具の武器を手にうんうんとうなずく。
「あの、変なマッシーンはどうなの? ハンマーでやろうか」アーシュラが指差した先には、泥色の騎士が変な一人用戦車に乗っている。それは、実はオリバーが遭遇した、哀れなブローの玩具、サー・ブローの変化した姿だった。勿論オリオールはそのことはまだ知らされていない。そして、今や魔物の一種と化したサー・ブローは、子供の作った泥人形ではなくて、異様なパワーを持った殺人戦車だった。
騎士はすでに4人が倒されるか、殺されるかしていた。戦っているのは残り2人。予想通り、紋章からしてツヴァイクの者だ。
「あの2人を援護!」ワートはダンとルークに向かって叫び、突撃した。ダンはその声の大きさにぶるっと震えたが、クワを振りかざしてもたもたとついていった。
「雑魚を一層!」ミゲルはビクトルさんと息もピッタリのタイミングで飛び出した。
驚いたことに、やる気になった兄弟は案外と強かった。たちまち魔物はなぎ倒され、もっと知能の高い連中は、警戒しつつ撤収しようとしている。
アーシュラとオリオールは、一人の騎士をいたぶっていたサー・ブローの前に、ゆっくりと立ちはだかった。
「あんたたち、誰だ?」騎士はヘルメットがズレた情けない状態のまま尋ねた。
「あんたたちが狙っていた相手ですけれど、何か?」オリオールはなかば背を向けたまま言い放った。
「えっ」
「なあ、寝ているままだと、食われるぜ、多分」と、クリッツが横から手を差し出した。騎士は、この顔色のさえない男は、魔物のほうか人間のほうか、一瞬判断に迷ってしまった。
サー・ブローは戦車を変形させ、車輪に炎をまとっている。ヘルメットの中の顔は見えないが、目の辺りからは黄色の光がもれている。握っている剣はかなり重そうなツヴァイハンダーだが、血糊のせいか、何か邪悪な独特の剣に見える。
「彼」が、もとから生物でないことは明らかだった。それも、普通のモノだったのだろう、とオリオールは思った。
モノまでもこの夜に動くようになったなんて。よほど、酷い壊され方でもして、人を恨んでここへ来たのかしら。
考えながら、術を詠唱する。ハンマー娘にベルセルクをかけておくのだ。
「うりゃああっ」
アーシュラのハンマーは戦車を直撃した。戦車はがくんと揺れ、右の車輪は下半分が砕け散った。
よし! オリオールは詠唱していた術を放つ。「クラック!」
左の車輪が、地割れしたその間にはまり込んだ。これで動きは止まった、とどめをさせば終わりだ。
と、思ったのは甘かった。おおいに甘かった。
車輪が砕かれたまま、戦車はにょっこりと地面から這い出し、そして元通りに動き始めた戦車の上で、邪悪な騎士のマシンは剣を振り回し、ミゲルの射た矢を手でつかんでひねり潰した――まるで本物の騎士が、敵に力を見せ付けるときするように。
全員が、さっき助けた騎士も一緒に総攻撃をかける。が、サー・ブローは結局、びくともしなかった。サー・ブローのする攻撃は、威力はあるけれども命中率が高くない。だからかわせばダメージは喰らわないが、こちらの攻撃も効かないのではきりがなく、最後はさっきの騎士のように追い詰められる。
これを見てさすがに兄弟もさっきまでの勢いが冷め、急に恐くなった。
オリオールはかれらを後ろにかばい、アーシュラとともに次の攻撃に備えた。オリオールの武器は、栄光の杖と、護身用のダガーだけである。手持ちの力は小さい、その小さい威力を数倍にするには?
オリオールは得意なほうの計算に切り替えた。小さい元手で、未知の投資をしつつ、数倍の利益を出すには? そしてそのリスクは?
「アーシュラ!」オリオールは小声で呼びかけた。指のサインでハンマー娘には通じる。
「オーケイ、不本意だけどそれ、狙う」と、アーシュラは言い、ハンマーを後ろ手に構えた。
~ジョカル編・リブロフ港
ロサの村を通過し、リブロフへさしかかったジョカルは、まさか銀行で大爆発があったとは知らなかった。通りは瓦礫の山になり、道路が寸断され、パブが大きく傾いている。義勇兵たちは周辺住民の避難を手伝い、片付けに追われている。ジョカルは急いでオリバーを探した。リブロフに戻ってオリオールからの手紙を受け取る手はずになっていたのを知っていたのだ。
だが町へ入るとすぐ、兵士モスがやってきて、オリバーは無事だといち早く知らせた。
「それならいい、兵士に負傷者は?」
「1名だけです。重傷ですが、本人は次の船でピドナへ戻るつもりだと」
ジョカルはうんとうなずき、「で、船はすぐに出そうなのか?」
トゥルカスに留守を預けてきたのだから、自分はできるだけ早くファルスへ戻らねばならない。
「それがとても無理なんです」モスが言いかけたとき、
「ジョカル!」
オリバーが宿舎から出てきて彼を見つけた。
「銀行が吹っ飛んだときいてぞっとしたぞ」
「僕はなんとか無事だった。テリーがやられたけど、意識はしっかりしてる」
「それで、船が出ないってどういうことなんだ」
2人は歩きながら話し出した。
「港が爆発の影響で破壊されて、船が一部浸水してるらしい。修理してるんだけど、なかなか直らないんだ」
ジョカルは奇妙な感じがした。来て見ると、港は確かに派手にレンガが崩れて、船が破損するのもわかる。けれど、修理にすでに半日費やしているというのに、まだ浸水するほどひどい状態になるのだろうか?
修理は、リブロフの技術者と、船の仕事をしていたと名乗り出た30代の義勇兵センティほか、経験のあるリブロフ兵数人でやっているという。オリバーも、実は早くピドナへ帰りたがっていて、船がなかなか出港できないのをもどかしく感じているようだった。
「オリバー、名簿を一応確認しとこうか、ちょうどそこに持っているようだし」
「?それは、構わないけど?」
オリバーはそれこそ偶然に名簿を手にしていた。負傷者のチェックと、ピドナに戻る兵士の数を確認する必要もあったからだ。ただ、最終チェックは船に乗り込むときでいいと思っていた。ジョカルが今それをしろというのは、何か思いついたに違いない。
「手分けして、すぐに名簿と本人確認をしてみるんだ」
「わかった」
名簿はコピーが3部あるので、オリバー、ジョカル、モスとで手分けして周辺へ散った。オリバーはリブロフの町へ、ジョカルは船の周辺、モスは中で修理や整理に当たる人員をチェックにかかった。
オリバーは、町に散らばって住民を助けている連中を要領よく確認することができた。そして、ピドナの義勇兵が気持ちよく復興を手伝ったというので、何人かの漁師は船でピドナへ送ろうかとまで言ってくれた。オリバーは本当はその言葉に甘えたかったけれども、リブロフからピドナまで漁船で渡ることはとても危険だとわかっていた。漁師の人たちを危険に巻き込むわけにはいかない。
丁寧に断って港へと戻りながら、路地を歩くオリバーは悄然としていた。今なら海は穏やかだし夜までには間がある、それなのに、船は出ない。今まで近いと思っていたピドナがいやに遠い。
その気持ちを読み取ったかのように、背中のバッグからピエールが言った。
「コーデル様が心配ならそう言えよバカヤロウ」
オリバーはびくっとして立ち止まった。メタルドラゴンはバッグの中から首をひょいと出す。
「船は、当分動きゃしないぜ、黙って待ってるつもりかよ?」
「そう言っても……陸路は遠すぎる」オリバーは蚊の鳴くような声で応じた。「義勇兵を束ねてここへ来た責任もあるし」
「じれったいヤツだな。ピエール様が猶予を15分やる。その間にここへ来た責任とやらにカタをつけて来い。この路地に来い、いいな!」
そしてピエールはバッグから勢いよく飛び出し、中空で再度怒鳴った。
「15分でカタをつけられないようじゃあ、お前との間はこれっきりだ。わかったな、とっとと行きやがれ!」
「ピエール!?」
オリバーは、銀色の小型ドラゴンが空中でスパークして目の前から消えるのを見てびっくりした。今まで変な模型と話をしていた気がしないでもなかったが、そうではなくて、不思議な力を持った本物の、一種のドラゴンだったのだ。コーデルを助ける手伝いをするかのような口ぶりのドラゴン、それが腹を立てて消えてしまった。しかし15分でここへ戻れたとして、船もないのにあのドラゴンがどうしようというのだろうか?
そのとき町の時計台が4時を打った。時間がどんどん流れていく。
オリバーは、もう考えることはせずに、慌てて港へと走っていった。
ジョカルも名簿のチェックをすませ、モスを手伝うついでに浸水被害を見ようと、船底へと降りていった。階段は狭く奥は薄暗いが、そこからモスの元気のいい声が聞こえていた。
「チェーック! ご苦労さん、そこの修理は完璧だね」
「モス」とジョカルは声をかけたが、ちょうど時計の音がかぶさった。仕方がない、と、ジョカルは自分も下へと降りていった。
「やれやれ、なんで名簿チェックかねえ? みんないるに決まってるじゃないか」モスはぶつぶつ言いながらセンティが修理をしている船尾の奥へと入り込んだ。
「どうしていまさら面倒な人数確認なんか?」
センティは手際よく工具を移動させながらモスに言った。
「うん、オレも早くトゥオル村を調べに行きたいんだよ。でももうこれで、つまりあんたで終わりだし――」
モスの軽快な口調は突然途切れた。
薄暗がりの船底で、モスはランタンを掲げ、自分の見間違いでないか何度も名簿をめくった。
名簿はアルファベット順である。センティはCで始まるので、ブラッドリーとダンテスの間になければならない。
「あれ?あんたのつづり、Sだっけか?」
ぶつぶつ言うモスに、センティは手を止め、乱れた長めの黒髪をざくっとかきあげた。
「Sじゃない。Cだ。センティ・ネルってないかい? 誰かが書き忘れたのだよ、困った人たちだねえ」
その声にモスは不意に寒気がした。
「センティ、ネルだって?」
そして彼のした仕事のあとに思わず視線が飛んだ。暗さに慣れたモスの目は、センティの触ったあとから海水が染み出しているのをはっきりととらえた。名簿にないのは、彼が、敵だからだ! モスは逃げ場もなく、剣は船底では作業の邪魔になると置いてきてしまっていた。だがさっき感じた一瞬の恐怖は消え、義憤がモスを突き動かした。
「お前は、何者だ!」
センティの両目が不気味な黄色に光った。
「名乗った通りさ、センティネル、つまり暗殺者だよ」
右手には銀色に光る大きな鎌が握られていた。センティが飛び掛ろうとしたとき、戸が開いて、ジョカルが体当たりした。
ドサッ!
ダンッ!
モスが階段下に転げるのと、センティの鎌がその数センチ脇に突き立つのが同時だった。
ジョカルとセンティがにらみ合う。モスは身軽に何段か階段の上に乗って叫んだ。「こいつが浸水の原因です!」
「そんなことだろうと思った!」
ジョカルはカムシーンではなく、ロサにもらったダガーと剣とを構えていた。足元には海水が染みてくるが、軽装のジョカルは平気だった。センティは首を、こりをほぐすような動作で回しながらジョカルを挑発した。首にチーフに黒い鎖のマークが見えるが、それはまさしくテント社のマークである。
「ジョカル・カーソン・グレイ? やっとおでましかい。アクバー峠の礼をしに来たよ」
「なるほどそんな頃合だ。義理にも歓迎とは言いかねるがな」
ジョカルはそういいながら、センティが人間離れした動きで宙へ浮くのを見ていた。この敵は強力な術の使い手であり、そして、こんな狭い空間で鎌を自在に操る。そのセンティから見て、ジョカルの剣の構えもまた寸分の隙もない。
2人は、にらみ合ったままピタリと動かない。その足元にじわじわと海水が染み出していた。
ロサの村を通過し、リブロフへさしかかったジョカルは、まさか銀行で大爆発があったとは知らなかった。通りは瓦礫の山になり、道路が寸断され、パブが大きく傾いている。義勇兵たちは周辺住民の避難を手伝い、片付けに追われている。ジョカルは急いでオリバーを探した。リブロフに戻ってオリオールからの手紙を受け取る手はずになっていたのを知っていたのだ。
だが町へ入るとすぐ、兵士モスがやってきて、オリバーは無事だといち早く知らせた。
「それならいい、兵士に負傷者は?」
「1名だけです。重傷ですが、本人は次の船でピドナへ戻るつもりだと」
ジョカルはうんとうなずき、「で、船はすぐに出そうなのか?」
トゥルカスに留守を預けてきたのだから、自分はできるだけ早くファルスへ戻らねばならない。
「それがとても無理なんです」モスが言いかけたとき、
「ジョカル!」
オリバーが宿舎から出てきて彼を見つけた。
「銀行が吹っ飛んだときいてぞっとしたぞ」
「僕はなんとか無事だった。テリーがやられたけど、意識はしっかりしてる」
「それで、船が出ないってどういうことなんだ」
2人は歩きながら話し出した。
「港が爆発の影響で破壊されて、船が一部浸水してるらしい。修理してるんだけど、なかなか直らないんだ」
ジョカルは奇妙な感じがした。来て見ると、港は確かに派手にレンガが崩れて、船が破損するのもわかる。けれど、修理にすでに半日費やしているというのに、まだ浸水するほどひどい状態になるのだろうか?
修理は、リブロフの技術者と、船の仕事をしていたと名乗り出た30代の義勇兵センティほか、経験のあるリブロフ兵数人でやっているという。オリバーも、実は早くピドナへ帰りたがっていて、船がなかなか出港できないのをもどかしく感じているようだった。
「オリバー、名簿を一応確認しとこうか、ちょうどそこに持っているようだし」
「?それは、構わないけど?」
オリバーはそれこそ偶然に名簿を手にしていた。負傷者のチェックと、ピドナに戻る兵士の数を確認する必要もあったからだ。ただ、最終チェックは船に乗り込むときでいいと思っていた。ジョカルが今それをしろというのは、何か思いついたに違いない。
「手分けして、すぐに名簿と本人確認をしてみるんだ」
「わかった」
名簿はコピーが3部あるので、オリバー、ジョカル、モスとで手分けして周辺へ散った。オリバーはリブロフの町へ、ジョカルは船の周辺、モスは中で修理や整理に当たる人員をチェックにかかった。
オリバーは、町に散らばって住民を助けている連中を要領よく確認することができた。そして、ピドナの義勇兵が気持ちよく復興を手伝ったというので、何人かの漁師は船でピドナへ送ろうかとまで言ってくれた。オリバーは本当はその言葉に甘えたかったけれども、リブロフからピドナまで漁船で渡ることはとても危険だとわかっていた。漁師の人たちを危険に巻き込むわけにはいかない。
丁寧に断って港へと戻りながら、路地を歩くオリバーは悄然としていた。今なら海は穏やかだし夜までには間がある、それなのに、船は出ない。今まで近いと思っていたピドナがいやに遠い。
その気持ちを読み取ったかのように、背中のバッグからピエールが言った。
「コーデル様が心配ならそう言えよバカヤロウ」
オリバーはびくっとして立ち止まった。メタルドラゴンはバッグの中から首をひょいと出す。
「船は、当分動きゃしないぜ、黙って待ってるつもりかよ?」
「そう言っても……陸路は遠すぎる」オリバーは蚊の鳴くような声で応じた。「義勇兵を束ねてここへ来た責任もあるし」
「じれったいヤツだな。ピエール様が猶予を15分やる。その間にここへ来た責任とやらにカタをつけて来い。この路地に来い、いいな!」
そしてピエールはバッグから勢いよく飛び出し、中空で再度怒鳴った。
「15分でカタをつけられないようじゃあ、お前との間はこれっきりだ。わかったな、とっとと行きやがれ!」
「ピエール!?」
オリバーは、銀色の小型ドラゴンが空中でスパークして目の前から消えるのを見てびっくりした。今まで変な模型と話をしていた気がしないでもなかったが、そうではなくて、不思議な力を持った本物の、一種のドラゴンだったのだ。コーデルを助ける手伝いをするかのような口ぶりのドラゴン、それが腹を立てて消えてしまった。しかし15分でここへ戻れたとして、船もないのにあのドラゴンがどうしようというのだろうか?
そのとき町の時計台が4時を打った。時間がどんどん流れていく。
オリバーは、もう考えることはせずに、慌てて港へと走っていった。
ジョカルも名簿のチェックをすませ、モスを手伝うついでに浸水被害を見ようと、船底へと降りていった。階段は狭く奥は薄暗いが、そこからモスの元気のいい声が聞こえていた。
「チェーック! ご苦労さん、そこの修理は完璧だね」
「モス」とジョカルは声をかけたが、ちょうど時計の音がかぶさった。仕方がない、と、ジョカルは自分も下へと降りていった。
「やれやれ、なんで名簿チェックかねえ? みんないるに決まってるじゃないか」モスはぶつぶつ言いながらセンティが修理をしている船尾の奥へと入り込んだ。
「どうしていまさら面倒な人数確認なんか?」
センティは手際よく工具を移動させながらモスに言った。
「うん、オレも早くトゥオル村を調べに行きたいんだよ。でももうこれで、つまりあんたで終わりだし――」
モスの軽快な口調は突然途切れた。
薄暗がりの船底で、モスはランタンを掲げ、自分の見間違いでないか何度も名簿をめくった。
名簿はアルファベット順である。センティはCで始まるので、ブラッドリーとダンテスの間になければならない。
「あれ?あんたのつづり、Sだっけか?」
ぶつぶつ言うモスに、センティは手を止め、乱れた長めの黒髪をざくっとかきあげた。
「Sじゃない。Cだ。センティ・ネルってないかい? 誰かが書き忘れたのだよ、困った人たちだねえ」
その声にモスは不意に寒気がした。
「センティ、ネルだって?」
そして彼のした仕事のあとに思わず視線が飛んだ。暗さに慣れたモスの目は、センティの触ったあとから海水が染み出しているのをはっきりととらえた。名簿にないのは、彼が、敵だからだ! モスは逃げ場もなく、剣は船底では作業の邪魔になると置いてきてしまっていた。だがさっき感じた一瞬の恐怖は消え、義憤がモスを突き動かした。
「お前は、何者だ!」
センティの両目が不気味な黄色に光った。
「名乗った通りさ、センティネル、つまり暗殺者だよ」
右手には銀色に光る大きな鎌が握られていた。センティが飛び掛ろうとしたとき、戸が開いて、ジョカルが体当たりした。
ドサッ!
ダンッ!
モスが階段下に転げるのと、センティの鎌がその数センチ脇に突き立つのが同時だった。
ジョカルとセンティがにらみ合う。モスは身軽に何段か階段の上に乗って叫んだ。「こいつが浸水の原因です!」
「そんなことだろうと思った!」
ジョカルはカムシーンではなく、ロサにもらったダガーと剣とを構えていた。足元には海水が染みてくるが、軽装のジョカルは平気だった。センティは首を、こりをほぐすような動作で回しながらジョカルを挑発した。首にチーフに黒い鎖のマークが見えるが、それはまさしくテント社のマークである。
「ジョカル・カーソン・グレイ? やっとおでましかい。アクバー峠の礼をしに来たよ」
「なるほどそんな頃合だ。義理にも歓迎とは言いかねるがな」
ジョカルはそういいながら、センティが人間離れした動きで宙へ浮くのを見ていた。この敵は強力な術の使い手であり、そして、こんな狭い空間で鎌を自在に操る。そのセンティから見て、ジョカルの剣の構えもまた寸分の隙もない。
2人は、にらみ合ったままピタリと動かない。その足元にじわじわと海水が染み出していた。
テント社の船団はBBを包囲するように不気味に近づいてきていた。ファルコはこれを見ても焦らず、小回りのきく船体を生かしてかく乱の作戦である。横波が激しさを増し、風が渦を巻いているようだった。マリノは忙しく帆を調整し、フローレンスが火薬を主砲に詰め、ジャーヴィスが距離を測った。
そのときコッティが突然言った。
「あの船団のうちで、半分は幻覚よ!」
そのときコッティが突然言った。
「あの船団のうちで、半分は幻覚よ!」
ファルコらは驚いて振り返った。とても幻覚とは思われない実体が見えているからだ。だが言われてみれば、船そのものは帆のはりかたがでたらめである。コッティは確信を持っている。
「あの2番目についている黒っぽい船がいるでしょう、あそこに術使いが乗っているの。船は沈没船を術で浮上させてあるし、乗っているモンスターの兵士はフェイクよ」
サヴァが涼しい顔で付け足した。「あれに突進したらたやすく囲まれるってことね」
ファルコはそう聞くとにやりとした。
「そう思わせておこうか。この風を乗りこなせるのはBB以外にないと思い知らせてやる」
BBは身軽に海上を滑っていった。モンスターの乗る幻覚の船に向かうと見せかけると、敵の一味を乗せた残りが追ってきた。
「右舷、一斉に撃つぞ、用意は!」
「いつでも!」
ファルコは舵を一杯に切った。見事に旋回したBBは、追ってきた敵がまだ準備もできないうちに、その横船体に風穴をあけ始めた。煙とともに轟音が響き渡る。反撃の砲弾は、BBの手前の海面でいくつか水柱を上げた。乗組員はこぶしをつきあげて威嚇しているが、攻撃しようにも何一つ届かない。BBの性能はこのクラスの船としてはピカ一だ。
蜂の巣にされ早くも傾きかけた敵の船は、マリノが余裕で確認したところでは「ビクトリー」号という皮肉な名前がついていた。これが一対一ならばすぐさま乗り込んで、あれこれ失敬するところだが、今回は次の船に追いつかれる前に、BBはその場から離脱。
次に相手にした船の名は「フォルナータ」号、互いに砲撃したが敵も動きが素早く、ビクトリー号ほどあっさりとは倒せない。しかしついにファルコがタイミングをとらえた。合図とともにフローレンスの主砲が火を吹き、フォルナータのフォアマストに一撃を食らわせたのである。反撃はシビアで、きわどいところだったが、BBはうねる風をうまくとらえて離脱。5隻を沈めた後、嵐にてこずる敵が1隻、前方に見つかる。
BBの連中は調子が上がっていた。カットラスやフランシスカを打ち鳴らし、マリノがはじめた鼻歌を全員で怒鳴るように歌う。
♪ヘイ、ホーウ、真っ白けのアルバトロス、南の果てを見てきたか
サヴァはメインマストの上で元気にその声に加わった。
彼女はその歌を小さい頃からよく知っていたし、とても気に入っていた。BBの面子がブラック邸に来ると、お酒もはいってすぐこんな風に歌いだす。そしてサヴァのひときわ澄んだ歌声は、ちょっと加わるだけで歌そのものをいっぺんに引き立て、宴が盛り上がって夜中まで続くことがあった。笑い声に波音が混じり、炎の明かりが海面にゆらめく。BBとともにあるグレートアーチの記憶は、強烈な嵐の恐ろしいパワーや凪の日の潮の香りにいたるまで、サヴァの心に染み付いている。
♪ヘーイ、ホーウ、ホーウラー、ヤア!
ファルコのちょっとしたしぐさを見て、さっと歌が止む。次の標的がいよいよ間近だった。ファルコが的確にその船の弱点を教え、全員で猛攻をかけた。「ペールエール」号の船長は勇ましくもBBに鉤を投げ込ませ、一味が乗り込んでこようとした。
マリノとフローレンスは下を覗き込み、あがって来いの合図をして挑発。これに乗って、浅はかにも船体にはりついた数人をタールが直撃、そこでコッティが指先に炎をぽっと点してにっこり微笑んだ。
ボウッ!
悲鳴と炎のかたまりは、即行で海に落下。これがキューとなった。
「やっちまえ」
今度はBBの連中がペールエールに飛び乗る番だ。ジャーヴィスが得意の蹴り技で3人を倒して上を見ると、サヴァが碇を吊ってあるロープの上で、敵2人と渡り合っていた。飛びぬけてバランス感覚がいいサヴァは、ロープの上にいる敵の持つ剣を土台に頭上をジャンプ。あたふたする2人を見て、ちょっと小首をかしげ、剣を逆手に持って柄で叩きのめした。2人はあえなく落下。サヴァはその脇にひょいと降り立った。
ファルコは甲板を走り、反撃も逃走もできないうちにパンチを数発浴びせ、赤ら顔のでっぷりした船長を捕らえた。
「……その服装、ふるぼけてはいるがかつては確かな地位の船を預かっていた身か。裁判にかけてやる、悪事に加担した罪を償え」
「生意気な小僧めが! ワシはかの有名なブルーマリーンの生き残りだぞ!」
ファルコの怒りに火がついた。
「悪党のくせに、その名を口にするかっ!」
ファルコのカットラスはごってりした服を真半分に裁断した。そして、裸にされて大騒ぎする船長の、細工だけは見事な剣を蹴り飛ばしながら甲板を急いで横切って行き、ジャーヴィスにすれちがいざま怒鳴った。
「あいつをふん縛っとけ!」
「アイアイサー」ジャーヴィスはご機嫌でいった。
ファルコは、一味を殺さず、ほかの敵船同様、ペールエールは航行不能にした。
「こんな沖でどうしろっていうんだ?」船長が文句をいうのでマリノが言った。
「あるだろうよ、帆もついた救命艇がな」
「食料もあるよ。奥にあったマメは、シチューにするのが一番美味い。あの緑のナッツはソースにしてみろ、チキンがあれば合うんだが、魚にも使える」と、フローレンスはレシピの説明までしかねない勢い。
ファルコは笑いをおさえながら、悪態をつく船長に右手の指で軽く挨拶してやった。
「一番近い陸地は120キロ先の火山島だ。じゃ、幸運を祈る」
BBが西へ滑っていくと、かなり後方にはあのフォルナータがついてきている。
「フォルナータにも乗り込むか、ええ、ファルコ?」ジャーヴィスがエキサイトして言った。
「駄目だ」ファルコはあくまで冷静。「マストを修理しないうちはBBに追いつけない。次の標的ならあの黒い船だ」
二時の方向にぽつんと停船している黒い船には金色で「マジシャン」と書かれていた。
「嵐と、敵と両方に勝って、予見通りここに現れた」モレスコが、灰色のフードの下で無表情で言う。
「結局使えたのはフォルナータくらいなものだわ。ごろつきの寄せ集めは考え物ね」
マグノリアは赤い髪をなびかせて言った。そのいでたちは、リゾートで遊んでいるかのように軽やかかつ鮮やかで、武装といえるのは精巧な細工のある赤いレザーの胸当てくらいなもの。素手のまま武器も持たず、足元は9センチあるヒールのグラディエータサンダルである。そもそも長身のマグノリアは、船首に立つと、場違いなモデルがいるようで、明らかに目を引いた。
その黒い船がゆっくりとBBに向かって方向を変える。
「正面からくるつもりらしい」マリノが驚いて言った。「ものすごい速度だ」
ファルコは甲板の中心に立って、フフンと鼻を鳴らした。
「まともな船乗りじゃないさ。あの帆の扱いを見てみればわかる」
術で船を動かしている。前回もその「ありえない」動きに苦戦を強いられたのだ。船首の赤毛の女もどこか異様だが、その向こうにいる灰色のマントのほうがもっとたちが悪い。
前回衝突したときもこの連中は後方にいた。そして、どうやら今度のほうが、灰色マント野郎の術がアップしている。
BBが逃げるのを待っている。だが逃げても追いついてくるだろう。
ファルコは、後ろを向き、「激しい戦いになるぞ、油断するな」と、言った。
おおーっ、と歓声が上がった。
しかし、マリノに舵を任せたファルコは、船尾階段でサヴァを見つけると両肩をつかみ、深刻な顔で言った。
「決して、最前線には出るな」
「でも――」
「やつらの狙いはお前だ、サヴァ」
「え、どうして!?」
「アビスにおそらくその理由がある。あの魔術師は人間というよりそういう異界の使者に違いないと思う。お前が聖王遺物の剣を使いこなすから狙うのか、そこははっきりとはわからない。だがいいか、俺たちは、何としてもお前を守り抜く」
「待って」サヴァは行こうとしたファルコの手をつかんで必死に言った。「占いで、猿の道化師が死ぬって出たの。多分、ジャーヴィのことなの。彼を、援護してあげて」
ファルコは彼女のつかんだ手をそっと握り、優しく微笑してから言った。
「コッティ様にマリノも厳命されたってさ。心配いらないよ」
その頭上には灰色の雲が垂れ込めてきていた。BBは突如始まった風におされ、左右に大きく揺れる。甲板はいままでにない緊張に包まれた。
コッティはとびはねるようにサヴァの側に来て、何も言わずに顔を覗き込み、サヴァがちょっと微笑むと、いつもどおり偉そうに肩を軽く叩いた。
「あの2番目についている黒っぽい船がいるでしょう、あそこに術使いが乗っているの。船は沈没船を術で浮上させてあるし、乗っているモンスターの兵士はフェイクよ」
サヴァが涼しい顔で付け足した。「あれに突進したらたやすく囲まれるってことね」
ファルコはそう聞くとにやりとした。
「そう思わせておこうか。この風を乗りこなせるのはBB以外にないと思い知らせてやる」
BBは身軽に海上を滑っていった。モンスターの乗る幻覚の船に向かうと見せかけると、敵の一味を乗せた残りが追ってきた。
「右舷、一斉に撃つぞ、用意は!」
「いつでも!」
ファルコは舵を一杯に切った。見事に旋回したBBは、追ってきた敵がまだ準備もできないうちに、その横船体に風穴をあけ始めた。煙とともに轟音が響き渡る。反撃の砲弾は、BBの手前の海面でいくつか水柱を上げた。乗組員はこぶしをつきあげて威嚇しているが、攻撃しようにも何一つ届かない。BBの性能はこのクラスの船としてはピカ一だ。
蜂の巣にされ早くも傾きかけた敵の船は、マリノが余裕で確認したところでは「ビクトリー」号という皮肉な名前がついていた。これが一対一ならばすぐさま乗り込んで、あれこれ失敬するところだが、今回は次の船に追いつかれる前に、BBはその場から離脱。
次に相手にした船の名は「フォルナータ」号、互いに砲撃したが敵も動きが素早く、ビクトリー号ほどあっさりとは倒せない。しかしついにファルコがタイミングをとらえた。合図とともにフローレンスの主砲が火を吹き、フォルナータのフォアマストに一撃を食らわせたのである。反撃はシビアで、きわどいところだったが、BBはうねる風をうまくとらえて離脱。5隻を沈めた後、嵐にてこずる敵が1隻、前方に見つかる。
BBの連中は調子が上がっていた。カットラスやフランシスカを打ち鳴らし、マリノがはじめた鼻歌を全員で怒鳴るように歌う。
♪ヘイ、ホーウ、真っ白けのアルバトロス、南の果てを見てきたか
サヴァはメインマストの上で元気にその声に加わった。
彼女はその歌を小さい頃からよく知っていたし、とても気に入っていた。BBの面子がブラック邸に来ると、お酒もはいってすぐこんな風に歌いだす。そしてサヴァのひときわ澄んだ歌声は、ちょっと加わるだけで歌そのものをいっぺんに引き立て、宴が盛り上がって夜中まで続くことがあった。笑い声に波音が混じり、炎の明かりが海面にゆらめく。BBとともにあるグレートアーチの記憶は、強烈な嵐の恐ろしいパワーや凪の日の潮の香りにいたるまで、サヴァの心に染み付いている。
♪ヘーイ、ホーウ、ホーウラー、ヤア!
ファルコのちょっとしたしぐさを見て、さっと歌が止む。次の標的がいよいよ間近だった。ファルコが的確にその船の弱点を教え、全員で猛攻をかけた。「ペールエール」号の船長は勇ましくもBBに鉤を投げ込ませ、一味が乗り込んでこようとした。
マリノとフローレンスは下を覗き込み、あがって来いの合図をして挑発。これに乗って、浅はかにも船体にはりついた数人をタールが直撃、そこでコッティが指先に炎をぽっと点してにっこり微笑んだ。
ボウッ!
悲鳴と炎のかたまりは、即行で海に落下。これがキューとなった。
「やっちまえ」
今度はBBの連中がペールエールに飛び乗る番だ。ジャーヴィスが得意の蹴り技で3人を倒して上を見ると、サヴァが碇を吊ってあるロープの上で、敵2人と渡り合っていた。飛びぬけてバランス感覚がいいサヴァは、ロープの上にいる敵の持つ剣を土台に頭上をジャンプ。あたふたする2人を見て、ちょっと小首をかしげ、剣を逆手に持って柄で叩きのめした。2人はあえなく落下。サヴァはその脇にひょいと降り立った。
ファルコは甲板を走り、反撃も逃走もできないうちにパンチを数発浴びせ、赤ら顔のでっぷりした船長を捕らえた。
「……その服装、ふるぼけてはいるがかつては確かな地位の船を預かっていた身か。裁判にかけてやる、悪事に加担した罪を償え」
「生意気な小僧めが! ワシはかの有名なブルーマリーンの生き残りだぞ!」
ファルコの怒りに火がついた。
「悪党のくせに、その名を口にするかっ!」
ファルコのカットラスはごってりした服を真半分に裁断した。そして、裸にされて大騒ぎする船長の、細工だけは見事な剣を蹴り飛ばしながら甲板を急いで横切って行き、ジャーヴィスにすれちがいざま怒鳴った。
「あいつをふん縛っとけ!」
「アイアイサー」ジャーヴィスはご機嫌でいった。
ファルコは、一味を殺さず、ほかの敵船同様、ペールエールは航行不能にした。
「こんな沖でどうしろっていうんだ?」船長が文句をいうのでマリノが言った。
「あるだろうよ、帆もついた救命艇がな」
「食料もあるよ。奥にあったマメは、シチューにするのが一番美味い。あの緑のナッツはソースにしてみろ、チキンがあれば合うんだが、魚にも使える」と、フローレンスはレシピの説明までしかねない勢い。
ファルコは笑いをおさえながら、悪態をつく船長に右手の指で軽く挨拶してやった。
「一番近い陸地は120キロ先の火山島だ。じゃ、幸運を祈る」
BBが西へ滑っていくと、かなり後方にはあのフォルナータがついてきている。
「フォルナータにも乗り込むか、ええ、ファルコ?」ジャーヴィスがエキサイトして言った。
「駄目だ」ファルコはあくまで冷静。「マストを修理しないうちはBBに追いつけない。次の標的ならあの黒い船だ」
二時の方向にぽつんと停船している黒い船には金色で「マジシャン」と書かれていた。
「嵐と、敵と両方に勝って、予見通りここに現れた」モレスコが、灰色のフードの下で無表情で言う。
「結局使えたのはフォルナータくらいなものだわ。ごろつきの寄せ集めは考え物ね」
マグノリアは赤い髪をなびかせて言った。そのいでたちは、リゾートで遊んでいるかのように軽やかかつ鮮やかで、武装といえるのは精巧な細工のある赤いレザーの胸当てくらいなもの。素手のまま武器も持たず、足元は9センチあるヒールのグラディエータサンダルである。そもそも長身のマグノリアは、船首に立つと、場違いなモデルがいるようで、明らかに目を引いた。
その黒い船がゆっくりとBBに向かって方向を変える。
「正面からくるつもりらしい」マリノが驚いて言った。「ものすごい速度だ」
ファルコは甲板の中心に立って、フフンと鼻を鳴らした。
「まともな船乗りじゃないさ。あの帆の扱いを見てみればわかる」
術で船を動かしている。前回もその「ありえない」動きに苦戦を強いられたのだ。船首の赤毛の女もどこか異様だが、その向こうにいる灰色のマントのほうがもっとたちが悪い。
前回衝突したときもこの連中は後方にいた。そして、どうやら今度のほうが、灰色マント野郎の術がアップしている。
BBが逃げるのを待っている。だが逃げても追いついてくるだろう。
ファルコは、後ろを向き、「激しい戦いになるぞ、油断するな」と、言った。
おおーっ、と歓声が上がった。
しかし、マリノに舵を任せたファルコは、船尾階段でサヴァを見つけると両肩をつかみ、深刻な顔で言った。
「決して、最前線には出るな」
「でも――」
「やつらの狙いはお前だ、サヴァ」
「え、どうして!?」
「アビスにおそらくその理由がある。あの魔術師は人間というよりそういう異界の使者に違いないと思う。お前が聖王遺物の剣を使いこなすから狙うのか、そこははっきりとはわからない。だがいいか、俺たちは、何としてもお前を守り抜く」
「待って」サヴァは行こうとしたファルコの手をつかんで必死に言った。「占いで、猿の道化師が死ぬって出たの。多分、ジャーヴィのことなの。彼を、援護してあげて」
ファルコは彼女のつかんだ手をそっと握り、優しく微笑してから言った。
「コッティ様にマリノも厳命されたってさ。心配いらないよ」
その頭上には灰色の雲が垂れ込めてきていた。BBは突如始まった風におされ、左右に大きく揺れる。甲板はいままでにない緊張に包まれた。
コッティはとびはねるようにサヴァの側に来て、何も言わずに顔を覗き込み、サヴァがちょっと微笑むと、いつもどおり偉そうに肩を軽く叩いた。
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